KIKORI

私達はRainbowをしっている

未来への橋を渡る時、人は感情豊かになる

息子が住むスペイン・バルセロナへの引っ越しの準備を始めた。本来は2022年1月、子供たちがそれぞれの国へ戻ってから、始めようと思っていたのだけど、気力というのは不思議な形で戻ってきて、この波に少し乗っておこうと、思った。

イタリアに住んだ10年間で、積み重ねたもの、集めたもの、自分の一部のように慣れ親しんでしまったものがありすぎて、大家さんに引っ越すことを、報告することさえも、なんとなく勇気が必要だった。

少しずつ友人達に報告しながら、ビザの申請のためスペイン領事館に行き、当たり前なのだけど、何枚もある申請書はスペイン語で、全く理解できない。もちろんイタリア語もラテン語だから、似ているとはいえ、間違えたくないわけだから、すごく慎重になる。

スペイン領事館の窓口の女性は、スペイン語なまりのイタリア語を話すから、聞きづらいな、と思うが、透明のパテンションにへばりつきながら、必死で理解しようとしている自分に笑ってしまい、10年前イタリアに引っ越したときのことを、思い出した。

ローマのアパートに引っ越したはいいが、オーストラリアからの荷物も、購入した家具も、当たり前のように届かず、あったのはベッドだけ。ワクワクはしていたし、娘が通っていたインターナショナルスクールを通じて、どんどん新しい人達と出会っていくし、止めどなく楽しい反面、ローカルの生活という意味では、ドライクリーニングに行っても、八百屋さんに行っても、言葉やシステムも分からなかったため、早く言葉を学びたい、と焦っていた。

オーストラリアで少しイタリア語のレッスンを受けたはずなのに、言い回しが変わるだけで別の言葉に聞こえてしまい、ものすごくあたふたしていたが、娘の方が、スクールバスから色々見るお店や景色を見て、ペンで道の名前を手に書き留め、テンパっている私に「マミー、Viale BuozziにOPIのネイルサロンを見つけたから、行ってきな」という感じで、よく緊張をほぐしてくれていた。

彼女からしてみたら、初めて見る母親の頼りない姿に不安がなかったはずがないのに、娘は何とかそんな私の力になろうと、私の好きそうなお店がどこにあるか、などいつも地図で見せてくれていて、私はそういう娘の愛にいつも救われていた。

スペインへの引っ越しは、新たな冒険で、不安とか楽しみとか全部ありながら、イタリアでの10年間もよく思い出すようにもなり、私もここまできたのだな、と誇りに思う反面、ここを後にするノスタルジアも混ざり、もう自分でも、楽しみなのか、寂しいのか、フレッシュな気分なのか、なんなのか分からなくなる時を過ごしている。

普通のことなのかもしれない。「破壊と再生」のど真ん中にいるのだから。娘と生きたイタリアでのチャプターを閉じる日が近づいているという、感覚が私をすごくセンチメンタルにするのだ。親子なのだけど、本当に「助け合って」生活してきたから、信頼関係がぐらつくことなんて一度もなく、二人三脚で、一緒に成長して、「もう一度この10年をやれ」と言われたら、間違いなく断るほどハードだったけど、エネルギー溢れ、得るものが本当に多かった実りありまくるチャプターだった。

あれもこれもと思い出しているうちに、娘の声が聞きたくなり、ビデオ電話し、交じる感情溢れて泣いている私を、彼女は「そこで泣く?!」と笑い飛ばしてくれた。彼女は私を知っている。変に優しくしたら私が弱ってしまい、混乱さえもしはじめることを。だから、アメリカでみつけた良いスキンケア商品とかを色々見せてくれて、「じゃ、クラスだから!」と元気よく行き、この日もまた娘に心を穏やかにしてもらった。

日中は、スペインビザ申請に必要な書類集めで、ばたばたしながらも、新しい生活へとむけてワクワクしたり、46歳になっても、また未知の世界に飛び込め初心に戻れることに感謝したりと、清々しいスッキリ感があり、夕方ごろからは、イタリアを離れる寂しさや思い出に浸る事が多く、ここ2週間の私は、とにかく精神的にも、肉体的にも忙しい。

友人達や、同じパラッゾの人達に「ここにずっと居て欲しい」と悲しい目で言われると、切なくなり、やめてくれ、と思う。

こんな時ほど、私は運動、睡眠、食事で、自分の状態を毎日整え、どんな感情が巡ってきても、しっかり丁寧に受け止められるようにしている。自分のコアには、とてもピースフルで静かな自分がいる。その自分と毎日コネクトしながら、「今、この瞬間」という時を、ついてくるエモーションも含めて、大切にしながら、楽しんでいる。

過去も現在も未来も、全てが愛おしい。

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フッと気づくと、ピンクが多い時期